No.40 掲載記事
毎日新聞より(2004.8.12付け)

04夏・平和の自画像−12
 
悲しみの星に生まれて

父は戦場で「鬼」になった〜つぐないの思いを本に

 うだるように暑かった今年7月、大相撲名古屋場所のちゃんこ場で名古屋市のフリーアナウンサー、坂東弘美さん(56)はしゃもじでご飯を盛っていた。父が残した長い手紙を一冊の本にするためのパートだ。ちゃんこ場は名古屋城内の愛知県体育館裏にある。72年前、父はこの地にあった「歩兵第6連隊」に入隊した。

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 「お父さんは人を殺したことがあるの?」
 「殺さなかったら、おれが殺されている」
 娘の問いに、そう答えたきり、父は黙った。中学生のころ、軍刀で誰かを切ろうとしている日本兵の写真を、父の書棚で見つけ、ずっと気になっていた。父の言葉と沈黙が、弘美さんの胸に重く沈み込んだ。
 〈父が人を殺して生き延びたから私は生まれたの?〉
 誰にも問えないまま、四半世紀が過ぎた。弘美さんの長男雄一郎さんが小学6年のころだった。夏休みの宿題で戦争の体験を尋ねられ、父は離れて暮らす孫の雄一郎さんへ手紙を書き始めた。十数回に分けて便せんで計343枚。手紙には、中国の戦地で普通の青年が冷酷な「鬼」に変わっていく姿が描かれていた。
 上海の掃討戦。「若い母親が子供を抱いて泣きながら助けを求めていた。泣き声は機関銃の音の中に倒れて止まった。脳裏に焼き付いて離れない」。ある村落。「家の片隅に一塊に女性や子供たちが隠れていた。やむをえず銃剣で全員を刺殺せねばならなかった」
 「人の天井を知らぬ欲のため戦争は繰り返される。人類が戦争から逃れる術はない」。そう記してあった。
 〈343枚の便せんが、父の沈黙の答えだったのか・・・・〉
 手紙を書き終えたころから、父の痴呆は進行した。

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 雄一郎さんが19歳になった夏、旧満州の長春市にある大学に留学した。「日本鬼子(リーペングイズ)」。日本軍への抗戦の歴史を紹介する記念館で、ささやかれる言葉が耳に刺さった。初めて自分の中に流れる日本人の血を、雄一郎さんは意識した。
 二つ年上の親友、張陽さんが日本に留学することになり、坂東家にホームステイした。弘美さんは、中国人の張さんをわが子のように世話した。4カ月が過ぎたころ、父は82歳で死んだ。葬儀では留学中の雄一郎さんに代わり、張さんが柩をかついだ。父が戦争で多くの命を奪った国の青年だった。
 「私の命は中国の人々が流した血と涙でできている」。弘美さんは父が亡くなってから数年後、中国に渡った。中学校で日本語教師を2年、中国国際放送局のアナウンサーを2年余り務めた。初めて出会う中国人とのあいさつはいつも「ごめんなさい」だった。最後までわびることがなかった父から引き継いだ自分の仕事だと思っている。

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 張さんは大学を卒業後、日本で就職し、中国の朝鮮自治区出身の女性と結婚。昨夏、長男が生まれた。愛称はディンティン。弘美さんには初孫に思える。日本語、中国語、朝鮮語に囲まれ育つディンティン。その未来にも国と国のいさかいは続いているのだろうか。
 「戦争は避けられない」と言い残した父。人と人との信頼が国を越えて平和を守ると信じる娘。もう誰も鬼にはしたくない。そんな思いを込めた「父の本」は8月15日に出版される。
 【早坂文宏】=つづく