『む・しの音通信』50号 記念特大号

特集《おんななら誰でもいいのか!?》


9・11
愛知県日進市・ごとう尚子


 選挙の2日前に小泉が日進市に来た。何が起きるのか見届けようと出かけて行った。会場からあふれた人はマニフェストと交換に差し出される名票をわれ先に受け取り、大急ぎで住所、氏名を記入していた。ハンドマイクの大きな声と肩をぶつけ合う聴衆、意味もなく高揚した異様な光景に、これから何が起きるのかと背筋が寒くなった。
 最前列に座った。小泉の滞在時間は意外に長く演説は20分ほどだった。その内容はまさに「シングルイシュー」。「改革が進められないのは、選挙への協力拒否が怖いから。自民党は利益誘導団体と手を切った。だから改革が進められるのはわれわれだけだ」という政治を矮小化し、単純化した三段論法を繰り返すだけ。会場からは割れんばかりの拍手が続いた。「扇動・洗脳」の真っただ中に座
って、気分の悪くなる思いだった。
 結果は自民党圧勝。小選挙区制度が今回のような結果をもたらすということは、この法が通るときに多くの市民が危惧していたし、マスコミも論じていたところである。以前、自治省(当時)課長がこう発言した。「日本では議員が法律をつくることはめったにないが、例外がある。それは公職選挙法だ。時の政権は自分たちの選挙に都合のよいやり方をつくるものだ」と。
 「解散の時期も、トヨタの長期夏休みにあわせた(労組が動かない)」という話が本当に思えるほど計算しつくされ、準備された解散と選挙だった。朝・昼・夜のニュースは赤地に白と白地に赤で「改革を止めない」とデザインされたパネルの前に武部が立つ映像。次に小泉が街宣車の上で「改革を止めない」と腕を振り上げ演説する映像。繰り返しこれを見ていた人への計りしれない影響。これから国政選挙があるたびに、私たちは今回のようにマスコミを通じて国民を躍らせた勢力が勝つという空騒ぎと悪意の選挙を経験しなければならないのかと思うと、空しさを通り越して、恐ろしさを感じる。
 「郵政が改革の始まり。改革を止めない。今回の選挙は国民投票だ」と、まったく乱暴でしかない小泉の論調を自論のように口にして、「だから自民党に入れた」という知人が何人もいた。
 人々はなぜ単純化された恣意的なシナリオを疑いもなく受け入れてしまったのか。考えられることのひとつには、この国が戦後一度も政治教育をしてこなかったことがある。国会議員の数など政治に関するつまらない知識はテストのカッコを埋めるために覚えたが、私たちは学校でも社会でも税金がどうやって使われるか、暮らしをよくするために政策をどのように見比べるかという政治を見る目、考える力の教育や訓練は一度も受けたことがない。
 今回の選挙の特徴に、郵政民営化反対の態度を表明した者への対立候補として女性候補者の起用がある。彼女らの動きこそが今回の選挙シナリオの中核だった。まさに小泉劇場の女優として雇われた人たちだ。
 私たちは1995年「女性を議会に」という運動を始めた当時の「女ならだれでもいいのか」という問いにはっきり「女ならだれでもいいのではない」という結論を持っている。有権者の声をもとに自らの行動を決められる自律した、正しい人権意識を持った女性議員を増やすことこそが必要だと考えている。
 今回の女性たちはどうだったか。立候補の動機は「小泉首相がそういわれるのなら」「小泉首相が直接お願いされたので」そして「小泉さんの改革を進めなければならないので」とテレビでコメントしている。当選後は「小泉さんが言われるので派閥には入らない」とも。
 これらの女性たちは当然、どの法案についてもパターナリズムに従い、党の意向どおり起立をし票を投じるのであろう。数、駒としての議員であるというだけでなく、劇場の観客を扇動する女優であったことは歴史に刻まれるのだろう。自民党が次回、彼女たちをどう扱うかということについては注目すべきだ。
 党の意思に反発する者に粛正を加え、みせしめにして全体の統率をとる。こうしたファ
ッショなやり方の中では一人ひとりの政治家の意思など生かされるはずはなく、すなわち一人ひとりの国民の意思は選挙後に国会審議の中に生かされるはずがない。つまり、国民はあの選挙の瞬間にすべての事柄について白紙委任したということになるのだ。
 短期、中期、長期それぞれに準備されたいろいろな「悪意」が巧妙に絡み合い、順々に現実をつくり上げていく。憲法も教育基本法も男女共同参画基本法も、改悪へと動き出していく。
 今、私には対抗すべきアイディアがない。しかしあきらめることは許されない。

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金武という町に暮らして
沖縄県金武町・仲村広美



 衆議院選挙の前に、『む・しの音通信』の担当者から電話をもらった。2つのテーマから選んで書いてと。どちらも簡単なようで文章にするには難しい。選挙の忙しさもあり、意識的に(?)延ばし延ばしにしていた。
 さて、今までの私の経験と今回の選挙を考えながら正直な気持ちで書こうと思う。
 私は21歳で結婚し、沖縄本島の中央に位置する金武町というところに住んでいる。1万人余の人口で、軍用地が60%を占め、その地料のおかげで、町の財政や町民の生活は恵まれていると思う。結婚当初は、この地域に慣れようと必死だった。でも日数がたつにつれ「あれ?」と思うことが多くなった。
 男女とも普通に話すにはどうということはないのだが、つっこんだ話をするとかみ合わないのだ。「はて? 自分がおかしいのか」と思うことたびたびである。もちろん人それぞれ考え方があり、意見が違うのは当たり前である。それを分かった上で、理解しようとしても何かが違うのである。まだ、男性は、けんか腰の話になっても、後々お互いに理解できるものがあった。でも、女性たちは違っていた。自分の考えや意見を言わないのである。それぞれの考えを持ち合わせていない様な感じだ。
 男性中心の歴史の中で、ものを言わなくな
ったと思われる。でも果たしてそれでいいのか。大勢の中で流れに任せて、何も言わずに静かに生活することは楽である。
 今回の選挙も同じだ。マドンナともてはやされて当選した人たちの何人が、自分の考えや意見を貫き通すことができるのか。男性にしても「民意」などといって、今まで反対してきたことを簡単にくつがえす。
 多勢がすべて正しいとは限らない。私は今回の選挙ほど怖いと思ったことはない。
 結論、男にしろ、女にしろ、自分の考えを持って回りに左右されずに、先を見通し、想像する力を持った人間がいいと思う。


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議員に求める資質は「人間性」
青森県弘前市・野田千恵



 以前『む・しの音通信』に載せていただいたように、ボランティア選挙で当選した仲間の裏切りを経験しているだけにこのテーマには「ドキッ」とさせられる。ワールドカップ出場のスキー選手で大卒。経歴も性格も明るく、最下位ながら当選を喜びあったのも束の間、わずか50日足らずのこの出来事は今も深く活動に影を落としている。
 また、市町村合併に揺れた隣町の推進派町長のリコールに絡み、ワイロを受け取り有罪判決が下された町議8人中2人が女性議員。1人は友人だ。大学を卒業後、外国へ留学。参議院厚生課参事として働き、英語スクール主宰などをつとめてきた。次々と逮捕者が出始めたとき、友人だけは違うと信じていた。
 それがまたもや信頼を裏切られ、落胆したのはつい最近のことだ。『市民派議員になるための本』(寺町みどり著・学陽書房)を読んでほしかったのに、手渡すことができないまま議員を辞職してしまった。それなりに人選をしたつもりだったがミスを認めざるを得ない。
 それでも女性議員が増えてほしい。女性ならではの視点と経験から、生きた政策を立案し政治を変えてほしいと思うゆえに。想像力をいくらたくましくしても、妊娠・出産、育児、共働きの環境整備や介護の実態、DV問題など男性に理解の難しい分野はある。子どもたちを健全に育てるための環境作りはお年寄りにとっても良い環境だと思う。
 政治は生活であり、生活が政治に直結していることは間違いなく、まして特別なものではない。税金の再分配において、どちらかの性に片寄ることなく、等しく人権が守られ、この国で生きていくためには、どんなに理解のある男性議員がいたとしても、経験のあるなしで判断に違いが出ると思う。
 私利私欲を持たず信念を貫ける人、どのような価値観を持つ人なのか、そしてもっとも大事なことは、人間性の重視だと思える今日この頃である。


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闘える女こそ望ましい
東京都八丈町・奥山幸子


 八丈島の隣にある日本一小さな自治体、青ヶ島。村は4年前教育長を公募し、30代の女性を採用した。先日彼女から「衆院選に出るの」と明るい声で電話があった。教育長としての任期を3年残して自民党公募候補に応募したのだという。もちろん郵政民営化反対派議員の対立候補だ。落下傘ということもあり小選挙区では3位だったが、比例順位が1位だったため当選を果たした。
 衆院選も終ってみれば、おそろしいほどの「小泉党」の大勝利。注目されていた女性候補も全員当選。女性議員が増えるのは嬉しいはずなのに、喜べない。自民党は「刺客」として送り込んだこうした「華やかな」女性たちを、選挙を勝ち抜くための、その後はマスコミを引きつけておくための道具としてしか見ていないように思えるからだ。「男女共同参画社会基本法」を批判しているのは、ほかならぬ自民党の幹部だという。当選した女性たちも、職場や家庭で悩みや不安を抱えている女性たちの声を代弁できるのだろうか。
 日本の女性議員の割合は先進国の中でも極めて低い。これを高めることが豊かで多様な社会をつくるためには必要だ。動植物の多様性の高さが自然の豊かさを示すように、個性を活かした多様な生き方や、人々を受け入れる社会が豊かな社会なのだと私は思う。「勝ち組」と「負け組」に象徴されるような単純化された社会にしてはいけないのだ。だからこそ、性の役割を固定化し、「ジェンダー」
という言葉を使うことさえ許さないような女性議員や、男社会をそっくり受け入れるような女性とは時として闘わなければならないだろう(もちろん男性議員についても同じことが言える)。
 今、八丈町の女性議員は2人。来年の町議選でそのひとりが3期を務めたのち高齢を理
由に引退する。残る私が2期目に当選し、闘える女性議員をもうひとり誕生させられるくらい力をつけることが、最大の私の仕事だと思っている。

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こんなことが問題になるのがおかしい。
埼玉県越生町・田島公子


 日本の女性議員の割合は民主主義を標榜している国の中では最低に近い。人口は女性のほうが多いのに、なぜ女性議員の数が少ないのか。次の4点が考えられる。
1.立候補する人が少ない。長年の刷り込み が効いていて、自分が手を挙げるというこ とに心理的バリアーが大きい。
2.政治は男の領分という意識が強い。
3.お任せ民主主義。私がしなくても誰かが 何とかしてくれるだろう。この国に民主主 義を勝ち取ってきたという歴史がないから、 自分が関わるべきという思いがない。
4.実際選挙は大変だ。
 一番大きいのは、みずからが造るバリアーではないか。それを克服し、フツーの人が自分の頭で考え主張しだしたらこの国も変わるのではないか。政治とは生まれてから死ぬまでの暮らしのすべてに関わること。もの申すのは当然だから。
 国政と地方政治は異なると思うが、今回の衆議院選では「刺客」といわれる女性候補が擁立された。一人ひとりはある分野のエキスパートである。しかし、選択要件の一つは「男の目から見た美女」だったらしい。出たい、出したいと双方の思惑が一致した結果、「刺客」として利用された。女性なら美女を要件とすることこそが問題だ。勝ちたいがための取引なら有権者が冷静に見抜くべきだ。
 女性なら誰でもよいか? よいわけはない。こんな当たり前のことが問題になるのがおかしい。女だ、男だ、ではなく、政策と、拠って立つところの問題だ。この国を、地方をどのようにしたいのか。たとえば与党の圧勝で、憲法改正もすぐにもに始まりかねない。最重要と思う政策で一致しなければ、女性ならよいなどということはありえない。一致する議員なら女性をもっと増やしたいと思う。
 同時に「女なんてダメだ」と言われないように議員としての力量を付けたいものだ。

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女性議員もイロイロ
長野県穂高町・小林純子


 この3月のこと、児童館建設費の予算案に修正案を出した。いや、出そうとして女性議員3人で相談したが、なんだかんだ理由を付けて一人抜け、二人抜け、結局私一人になってしまい、本会議に修正案を提出することができなかった(修正予算の提案には定数の12分の1の賛同者が必要。穂高町議会は定数18、少なくとも2人いなければダメ)。
 委員会審議では、予算案に対して3人ともあれほど批判的であったのに・・・。「女ならだれでもいいってわけじゃない」と、つくづく思った。
 真っ先に抜けた女性議員は「町長や職員は精一杯やっている。建設費の多い少ないを取上げて、いろいろ言うものではない」と言い、次に抜けた共産党の女性議員は「党の先輩議員に相談したら、こういう修正案の出し方はよくない、党是に反すると言われた」ので降りるときた。
 こんなふうに、当選したとたん町長与党となってしまう人や、自分自身の主張より組織の論理を優先するような人では、たとえ女であっても願い下げである。いや、女でも男でもと言った方がよいのかも。
 しかし、「女ならだれでもいいのか?」と問われれば、つい真剣に考えてしまうのが女性。一方、「男ならだれでもいいのか?」と問われて、真面目に悩む人があるだろうか。「誰でもいいというわけにはいかない!」と、男女の別なく答えるのではないか。「女ならだれでもいいのか?」なんて聞かれること自体、女性がバカにされている気がして仕方がない。
 しかし「女ならだれでもいい」と、党利党略で考えている人が、かなり大勢いることも事実で、女性を政党や組織に取り込もうと手ぐすね引いているのだ。「政治に女性ならではの視点を」とか持ち上げながら、実は黙って頭数になってくれればよいというのが本音なのに、それに乗ってしまう女性も少なからずいるのは、とても残念なことだ。

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今回の選挙と重ね合わせて思うこと
三重県桑名市・中村実穂


 今回の選挙は、刺客という名のもと、女性がたくさん出馬した。「こんな形で、女性がでるのはねぇ〜」という人もいるが、こんな形でも、とにかく私としては、女性が話題になって出たということにそれなりに意義を感じずにはいられない。もちろんそれが小泉流であっても!である。なにせ日本の女性の議員数は、先進国の中では、ドベを維持しつづけているのだから・・・。
 男女共同参画に関する講演会などで引っ張りだこだった猪口邦子さん。こんな形で出馬するとは、ビックリだったが、こうなった以上、今後の活躍をのぞまずにはいられない。今まで聞いた講演はすばらしいものだった。是非実践につなげてほしい。グローバルな学者だからこそ期待していたのだから。
 それにしても選挙に関するテレビのインタビューにはがっかりさせられた。あまりにも表面的な視点だけで、一票を決めているから。メディアリテラシーの教育がもっと必要であると感じた。それ以前に政教分離という名のもと、教育の現場であまりにも政治に関する教育がなされていないように思う。私自身の時からそうだった。何かで読んだ、日本国民を馬鹿にするために国策を講じている人間がいる!というのを思い出してしまった。こんな状態なのであるから、女性が云々というレベルまでには、到底たどりつけるはずもない。私の周りがそうであるだけかもしれないが、あまりにも政治に無関心である。投票するとかしないとかいうレベルではなく、その中身に対してである。
 「む・しネット」の記念すべき時にちょうど選挙があったというのも何かの因縁かもしれない。この課題を考える際に行き着くところは、もっと政治を身近なものに感じてもらわなければ!」という思いである。
 その思いを実行に移すためにどうしたらいいのか、まさに今こそ正念場だ。
 本題に戻って、もちろん、答えは、女なら誰でもいいはずはない。

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「誰でも」よくない
愛知県名古屋市・吉田直美


 「私も我慢して乗り切ったのよ! 吉田さんも頑張って」。
 私はボロボロだった。子宮筋腫の手術、その半年後の帝王切開による出産。育休明けの保育園で子どもは次々に病気を拾い、自分の花粉症と夜泣きとでほとんど眠っていなかった。なのに、私は出世街道の入り口に立っていた。その仕事を引き受けさえすれば。
 仕事を命ぜられて呆然としている私の前にその助言をしたのがA女性上司だ。私は憮然とした。あなたがNOと言ってこなかったから、こんなことになったんだね。
 だ・か・ら「女なら誰でもいい」ってわけにはいかないんだ。
 なんで女性を議会におくりたいか?「私」が困ってるからさ。仕事・育児・別姓・介護
・DV・・・・制度や仕組みを変えれば少しましになりそうなんだ。第一、戦争はイヤだよ。夢で息子が戦争に行くってんで、胸が張り裂けて泣いちゃったよ。あと、エイズが爆発的に増加しているのに性教育しちゃだめなの? でもさ、いるんだよ。「別に困ってない」
っていう女が。その女(ひと)、本当に恵まれてきたか、モノスゲー鈍い女だと思う。鈍くないと乗り切っていけなかったのは、分かるけどさ。「我慢すれば、あなたも出来る」
っていう女も下がって。いや〜励ましてくれているつもりなんだろうけど、「私」のことを決める議員になるのはやめて。
 うちの業界で女性上司が百人になっても、Aさんみたいな女ばっかだったら、事態は悪化しかねないなあ。私、我慢できないもん。
 あとさ「いいヒト」だったのに役職がついたとたんに変わっちゃった人、何人も見てきたよ。フツーの女も議員になると、変わるのかも。フツーのヒトが、教師になったとたん錯覚を起こすようにね。
 バシッと目を覚ましてくれるキビシイ仲間がいる女がいいよね。