50号・エッセイ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一億総白痴の時代に
中日新聞生活部記者・白井康彦


  9月11日投票の総選挙の結果には、ただただ驚いた。小泉自民党のまさに圧勝。民主党の大敗。与党が衆議院でどれだけ優位な位置を占めたかは、9月21日の首相指名選挙の結果で一目瞭然だ。衆院は、小泉340票、前原114票、その他25票。小泉票は前原票のほぼ3倍。ちなみに参院は、小泉134票、前原84票、その他18票。衆議院の方が参議院より制度的に力が強いので、小泉首相の考え次第で日本の将来がいかようにも決まってしまう状況になったと言える。総選挙の結果の「重み」はすさまじい。
 問題は、選挙結果がそんな重大なことになると思わず「軽い気持ち」で自民候補に投票した人が多いことだ。いつもの総選挙なら投票に行かないような人たちがそうした行動を取ったのだから、小選挙区という選挙制度も絡んで、影響はすごく大きくなる。
 自民候補に投票した人の多くが主要な情報源としたのが、テレビ番組。選挙結果に決定的な影響を与えたと思う。自民分裂騒動から刺客候補の運動ぶりまで、モーニングショーやワイドショーみたいな番組がこれでもかこれでもかという調子で取り上げた。
 小泉純一郎、亀井静香、ホリエモン、野田聖子、佐藤ゆかり、片山さつき、といった人たちは視聴率が稼げそうなスターということだったのだろう。自分が「旧人類になった」と思わざるを得ないようなこともいくつかあった。例えば、岐阜1区での佐藤ゆかり候補の善戦。週刊誌に大きく不倫メール騒動が取り上げられた時点で、野田聖子候補に「大差で敗れる」と予想したのだが大はずれ。ネットなどでも煽られた「ゆかりたん」人気や熱狂的な小泉人気がスキャンダルを吹き飛ばしてしまった。
 小泉自民党の圧勝が分かった時点で頭に蘇ってそれ以来、頭にこびりついた状態になったのが「1億総白痴化」。低俗テレビ番組の悪影響を憂えた大宅壮一氏が50年近くも前に唱えた言葉だ。自分は、今回の総選挙で大宅氏が言いたかったことの理解が進んだが、本当はもっともっと、この言葉の意味するところを深く考えなければならないのだろう。
 自分がふだんの取材でテレビの悪影響だと強く意識しているのが、サラ金会社の繁栄だ。午後9時すぎの民放各局のサラ金CMの多さにはあきれる。これだけ好イメージのCMが流され続ければ、昔のこわいサラ金のイメージが薄れるのはやむを得ない。今でも高利貸しであることにまったく変わりはないのに・・・。しかも、スポンサーの意向を気にして、サラ金が原因である深刻極まる多重債務者問題を報道せず目をつむっている。マスコミとしてあってはならないことだと思うが、民放各局では悲しいことに現実だ。
 無党派の女性地方議員を増やす運動は、一億総白痴化とはあまり関係なく進められそうに思う。地方議員選挙はワイドショー的には取り上げにくい。市町村議員の選挙は大選挙区制が多いので、無党派女性議員がじわじわと増えていきやすいとも感じている。
 テレビは無関心でも新聞は別だ。地方政治や地方行政をしっかり取材しようとしている記者なら、無党派女性議員を増やそうという運動の意義は理解できるはずだ。女性議員は今でもあまりに少なすぎる。福祉、環境、教育といった彼女たちの大活躍できる分野がどんどん重要性を増している。そもそも地方議会の現状がひどすぎる。改革派の女性議員らが頑張るしかない。
 地域住民の間に、運動に加わる、あるいは共感を寄せてくれる人たちを地道に増やしていくことは難事ではない。志を一緒にして燃える人間集団の持つパワーはすごい。そうした運動に、新聞記者もうまく引き寄せていってもらいたいと願う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一番ダメなのはマスコミだ
「わいふ」「ファム・ポリティク」編集長・田中喜美子


 12年前の1993年、私はささやかな政治雑誌「ファム・ポリティク」を創刊した。「わいふ」をやっていて、女性の生活がいかに政治的に規定されているか、つくづく感じるようになっていたからである。
 創刊当時、私の怒りの矛先はもっぱら「政治家」に向けられていた。
 ところがやっているうちに、考えが変わってきた。
 一番悪いのは「政治家」だと思っていたけれど、そうではない、もっと悪いのは「官僚」だ、いやそれよりもっと悪いのは「マスメデ
ィア」だと、思うようになってきたのである。
 ごく最近の例をあげよう。
 さる8月15日、NHKのトーク番組で、「若者は無知だ無知だといわれるけれど、自分ちは学校で戦争のことをほとんど習わなか
った」という意味の発言があった。
 その時、出席していた町村外務大臣が答えたのである。
「近代史を教えようとすると、どうしても教員の政治思想があらわれる。当時は日教組をはじめとしてマルクス・レーニン主義を教えようとする教員が多かったので、近代史を教えさせるわけにはいかなかった。これが事実である」。
 ギョエー!
 私はいま『親にも言わせろ!教育改革』というどぎついタイトルの本を書いていて、日本の中等教育はつくづく「愚民教育だなあ」という感を深めているのだが、いかに何でもそれが文科省の意図的指導によるとまでは疑
ってはいなかった。
 しかし、事実はそうだったのである。「おかみ」というのは民主主義の世界でも、実に大きな権力を持っていて、たいていのことは思い通りになる。しかし、それを分からないようにこっそりやるのである。町村外相はその点で実にナイーブに、教育政策の背後にある「愚民政策」に口をすべらしたのだった。
 ところが、である。もっと驚いたのは、公開の場で行われたこの発言を取り上げ、問題にしようとするマスメディアがひとつとしてなかったことだ。かつての文部大臣が、こんな恐ろしい発言をしたというのに!
 まだある。このところ、日本の国連「安保理」常任理事国入りが論じられていたが、メディアは中国の反対が強いとほのめかすだけで、他の国々がなぜ、日本の常任理事国入りに反対するのか、ほんとうのところを伝えようとはしていない。
 実は日本には、1978年以来、一貫して軍縮や核兵器使用禁止に反対票を投じ続けてきたのである。
 国内では、口を開けば「唯一の被爆国として・・・」と核兵器廃絶や平和志向を語っているくせに、国連での日本はつねに、アメリカの核や軍事行動を是認する姿勢を見せ続けてきた。
 そして、メディアが、これほど重要な政府の姿勢をきちんと伝えたことはかつてない。(この問題については「ファム・ポリティク」49号に詳述した。読みたい方はお電話を。03−3260−4771)。
 国民はメディアが伝えてくれることを信じてしまう。今はインターネットの普及で自分で調べることもできるが、そんなヒマのある人はどこにもいない。国民全体はやはりメディアの誘導のままに動いてしまう。
 過去の戦争でも、メディアの果たした責任がいかに大きかったことか。しかしそのことがかつてしっかりと追及されたことはない。学者たちはメディアを敵に回すのがこわいのである。
 いま私のなかにはマスメディアに対する怒りと落胆が渦巻いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フィリピーナたちとともに
愛知県名古屋市・杉戸ひろ子


 この9月の初旬、民放テレビ局制作のドキュメンタリーが深夜に放映された。題して「フィリピーナにおまかせ 日本の介護事情」。名古屋の派遣会社が在住フィリピン人女性を対象に開講した介護ヘルパー2級養成講座の受講生にスポットライトがあたっていると事前に聞き、録画の準備をして放映時間を待った。驚いたことに、映し出された受講生の1人は、何と、かつて私が直接支援にかかわった女性。連絡を取らなくなって久しいが「フィリピンの女性はみんな水商売というイメージを変えたい」と話す彼女にテレビ画面を通して再会し、うれしくなった。
 彼女は1980年代後半、エンタテイナーとして来日。知りあった日本人男性と結婚を約束し、同居後2人の子どもをもうけるが、男性は、婚姻届はおろか子どもの認知すら応じず、別の女性と結婚。母子3人がオーバーステイで不安定な生活を余儀なくされる中、その男性の母親が彼女を気に入り、影に日向に力になった。当時はまだ在留資格のない子どもたちを公立の学校が受入拒否していた時代。彼女は保育園に子どもを通わせたい一心で、昼は中華料理店でアルバイトをし、夜はベビーシッターを雇ってスナックで働いた。何にでも熱心で、ある年の3月国際女性デーに子どもたちも一緒に名古屋の栄をパレードしたこともある。子どもたちの祖母の協力で何とか父親が認知届に署名し、母子がそろって在留特別許可を得た。名古屋入管に3人が出頭した日、私もサポーターとして付添った。母親が取調べを受ける長い長い時間を心配顔の2人の子どもたちと一緒に待っていたことを昨日のことのように覚えている。
 私は、1980年代終わりに勤務していた法律事務所が外国人の事件を多く手がけていたことがきっかけとなり、「外国人問題」に目を向けるようになった。90年代に入って外国人の定住化がすすみ、日本人男性との間の「ダブル」の子どもたちが急増し、父親探しや養育費を求める子どもやその母親を支援する活動が市民団体を中心に起こってきた。何とかアジアの女性たちとつながりたいとの想いから、私が外国籍女性支援の活動にかかわってすでに10年。現在はDV被害女性支援の民間団体で外国籍の支援にあたっている。 名古屋では1997年に日本人男性と結婚したフィリピン人女性たちの相互扶助を目的とした「FICAP」という会が立ちあがった。この会はやがて名古屋の歓楽街の中心に事務所をかまえる「フィリピン移住者センター」へと成長し、その地域で働くエンタテイナーのフィリピーナたちの駆け込み寺的な存在となっている。9月中旬のある日曜日、私は独自の活動が停滞気味の「FICAP」が久々にミーティングをもつから来ないかとの誘いを受けて出かけていった。そこでは冒頭のテレビ番組を見たとき以上の驚きがあった。 番組で紹介された介護ヘルパー2級養成講座を終了した第1期生と2期生の有志が「中部フィリピン介護協会」をいち早く発足させ、そのメンバー約10名が日本在住のフィリピン女性のかかえる問題を勉強しなくてはと馳せ参じていたのだ。日本に来て20年を超える人もいる。子どもがすでに結婚し孫ができたという人も。日本人の夫と死別した人、まだ小さい子どもを抱えて離婚した人など様々だ。しかし、一様にそのしたたかさには度肝を抜かれた。マイノリティとして長年異国で生きてきて培った処世術には心底頭が下がる。 ヘルパー2級の資格をもってしても、「日本国籍がないからダメ」と差別丸だしのあしらわれ方をされる。これがまさに多文化共生社会実現のプロセスかと思った。外国籍女性を支援する側からされる側への一方方向ではない、お互いがエンパワーしあう双方向の関係性が実現不可能でないことが実感できた。 この蒸し暑い日曜日の午後、フィリピーナたちにたくさん元気をもらって、私は足取りも軽くミーティングの会場をあとにした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「乳がん」を政策課題に
福井県敦賀市・今大地はるみ


 乳がんの当事者になってからというもの、乳がんに関する情報が非常に多く集まるようになった。その中でも、30代の女性からの切実な悩みが相次いで寄せられた。とくにわたしの友人の場合は、母親を昨年乳がんで亡くしたばかりだというのに、今度は妹さんが30代で乳がんが見つかったというのだ。
 未婚でキャリアウーマンの彼女にとって、乳がんの宣告で受ける不安や恐怖は、計り知れない。わたしの知る限りの情報を伝えることしかできない歯がゆい思いに、涙した。
 若年化している乳がんにとって、早期発見が最大の治療につながることはいうまでもない。しかし、国は30代での視触診の廃止とあわせ、毎年1回行っていた40代以上の検診を2年に1回にする方針を決めた。
 この国の方針では、早期発見が遅れるという理由から、岡山県では、独自の方針を打ち出した。30代の視触診を続ける、40代以上の毎年1回の検診も行うというのである。毎年1回の検診は、マンモグラフィーと視触診の併用であることは国の方針と同じである。
 岡山県にできて福井県にできないわけがないと思い、さっそく県の健康福祉センターでヒアリングしたが、国の方針通り変えるつもりは、まったくないとの回答だった。
 福井県における乳がん検診は、2台のマンモグラフィー検診車で、県内すべての自治体を回っている。1回の検診で見ることが出来る人数は40人。希望者の数はいつも40人を上回るという。
 このマンモグラフィー検診車は、県の外郭団体である「対ガン協会福井支部・健康管理協会」が所有しており、各自治体は運営費の一部を補助金として支出している。多分どこの都道府県でも同じような状況だと思う。国の乳がん検診に対する予算は、45億円と非常に少ないので、検診車の増台は見込めないとのことだ。
 敦賀市の健康管理センターの担当職員は、現在の月1回の検診では、希望者すべてに応じきれていない、早期発見のためにもぜひ検診回数を増やしたいと真剣に話してくれた。
 しかも、休日の検診は土曜日が年間3回のみなので、働いている女性にとっては検診を受けにくい状況にある。
 また乳がん検診の料金は1,300円だが、病院でマンモグラフィーと視触診を受けるとおよそ8,000円ほどかかる。
 県では、40代以上は2年に1回の方針を打ち出しているが、敦賀市は、今後も1年に1回を続けるつもりであることもわかった。
 これらの情報をもとに、9月議会は「乳がん検診について」を一般質問でとりあげた。
 敦賀市には日本原電の3・4号機増設に伴い、日本原電から20億円の医療機器整備名目の寄付金が寄せられたところであり、この寄付金でマンモグラフィー検診車の購入と、働く女性のために休日に市立病院での検診の実施を求める内容である。
 市が購入するマンモグラフィー検診車を、敦賀市を含む嶺南7市町村でつくる広域行政組合で運営することで、合理化も図れるし、嶺南全域の乳がん早期発見にもつながることを力説した。市長は、必ず次回の広域行政組合に提案することと、検診車購入に先立ち、休日の検診についても病院と健康管理センターとで協議することを確約した。
 わたしは9月28日から、抗がん剤治療のため3日間の入院をすることになっている。3週間様子を見たのち、再度抗がん剤治療を行うのか、手術になるのかを医師と相談することになっている。退院後は健康管理協会の情報公開を行い、運営費についての調査を進めようと考えている。当事者としての悩みや苦しみを乗り越えてきたわたしだからこそ、残りの人生を、23人に1人と言われる乳がん患者の早期発見と、早期治療の体制づくりに取り組もうと決意している。