敗戦そして引き揚げ
〜ブログ(http://blog.goo.ne.jp/sachi1941)
岐阜県岐阜市・新田幸子

 わたしはブログを今年の2月から始めた。居ながらにして、情報を発信、受信することができる優れたツールだと思ったからだ。これから歳を重ねていけば手も不自由になる。その時、マウスさえ動かせれば今までと同じように社会とつながりながら暮らしていける。まさに「老いる準備」でもある。そのブログに載せた、8月15日、敗戦記念日の記事が左記の新聞記事となった。重なるところもあるが、ダイジェストでアップした記事をご紹介する。
 「1945年8月15日、わたしは母と妹と中国の青島(チンタオ)に住んでいた。わたしは4歳、妹は1歳。父はその年の1月、3回目の召集で戦死していた。その年の12月引き揚げの貨物船に乗り、一週間後船は鹿児島に着き、とりあえず岡山の親戚に向かった。やっとの思いで引き揚げてきたわたしたちは、親戚にとってやっかい者でしかなかった。ただ一人、父の姉が支えになってくれて、私たちは2ヶ月ほど岡山に滞在することになった。しかし、平穏な日々は続かず、突然義姉が亡くなり、母の実の姉が住む岐阜に行くことに。叔母は、将校だった夫はシベリアに抑留され大学生の一人息子と二人暮らしだった。将校の宿舎は5部屋もあり、中庭まで付いた立派なもの。けれども、そこでもわたしたちは、やはり厄介者だった。
 岐阜というまったく見知らぬ土地へ来た私たちは、引揚者を収容している軍隊の宿舎に入り、運命の11月14日を迎える。
 それは七五三の前日だった。サツマイモの昼食後、私と妹は連隊の兵隊さんと、虫メガネで太陽の光を集めて紙を燃して遊んでいた。私は夢中になって兵隊さんの手元を見つめていた。ふと振り返ると妹がいない。みんなで必死に1時間ほど探しているうちに母は、「ここじゃないかしら?」と防空壕に水を張
った防火用水を指差した。母が竹ざおで必死に用水をかき回すと、ロンパスのたすきにひっかかった妹が浮いてきた。すぐ病院へつれて行ったが手遅れだった。妹の死は、母にも、わたしにも衝撃だった。5歳になっていたわたしは、妹の死の責任を5歳なりに受け止め、日に日に暗くなっていったという。
 「お父さんは一人じゃ寂しいってM子ちゃんを呼んだのよ。お母さんが小さい子を二人も抱えて生きていくのは大変だからって」と、母は自分自身をも納得させるかのように、わたしを静かに慰めた。
 どんなショックな事件があっても、とにかく生きてゆかなければならない。わたしたちは、市営の母子寮に移り住んだ。それから母はさまざまな苦労と努力を重ね、運よく事業に成功。わたしはなに不自由なく大きくなることができ、今がある。
 長ずるにつれて、「わたしはなぜ中国で生まれたのだろう?」という疑問がわいてきた。歴史を学ぶうちに、それが侵略戦争の結果だったことを知った。わたしは父を戦争で殺され、その結果、母が大変な苦労をしたと被害者の側面でしか、日中戦争をとらえていなかった。しかし、歴史の事実は違った。わたしたちは加害者の一員だったのだ。歴史は、事実そのままを伝え認めた上で、平和の道を考えていかなくてはいけない。事実の歪曲から生まれるのは憎悪だけだ。
 戦争の時代を生きてきた人は、誰でも、大なり小なり過酷な体験を潜り抜けてこられたことと思う。母と私の体験はそのうちの、ほんの一つに過ぎない。このブログを書いていられるのも、平和だからこそと、しみじみ思う。」