《書評》

『現代思想』9月号「ケアをすること/されること」を読んで
東京都八王子市・甘利てる代

 上野千鶴子さんの「ケアをすること/されること」を何度も読みました。何度も読んだのはうれしかったからです。
 この夏、上野さんのお話にあった、小規模多機能ケアの実践者「このゆびと〜まれ」の惣万佳代子と西村和美さんを含む介護の本をまとめていました。「このゆびとーまれ」には5〜6回は行ったでしょうか。なぜ行くのか。私は惣万さんと西村さんの実践が気になってしょうがないのです。
 惣万さんと知り合った頃、介護保険はありませんでした。利用料しか収入はないけれど、お年寄りといっしょに「普通の家であたりまえに暮らす」ことを選んだ人たちがいました。惣万さんもその1人です。
 今から10年ほど前のことです。
 どの宅老所も貧乏でした。建物もぼろっと古ぼけた民家だったりしました。でも、不思議なことに、お年寄りの顔は穏やかで、それぞれが個性的でした。
 施設では「お世話を受ける側」でしかないお年寄りが、宅老所では「茶の間にいる祖父母」でした。祖父母は客が来ると座布団をすすめ、お茶を入れて接待しました。小さな子どもがいれば、子どもの汚れた口もとをティッシュで拭いたりするのは当たり前でした。
 宅老所のケアワーカーはお年寄りのお世話をしているのではなく「自分たちこそお年寄りに生かされている」と考えているのです。寝たきりになって、しゃべれず、食事もできないお年寄りにこそ、思いをかけたいと実践してきたのです。「寄りそうケア」とは実践者たちがよく言うことばですが、受容というような安易なことばを使わないセンスに感服しています。
 実践はいくつもの奇跡を生みました。ケアする側と受ける側のあり方は、ある意味で、哲学だと思っています。
 改正介護保険に新しく登場した「小規模多機能型居宅介護」は、宅老所が生みの親です。私は宅老所ケアこそ、日本に生まれ、日本の風土に合ったオリジナルなケアだと確信しています。
 上野さんがインタビューの中で「実践に関心を持つのは、現場では、誰も考えついたことがない、先例のない事態が次々起こるからです。・・・」と言ってくださって、胸が熱くなりました。おそらく宅老所のワーカーたちは、目の前のお年寄りの心の声を聞くのに精一杯でしょう。どうしてこの人は徘徊するんだろう。なぜろう便するんだろう。そんなことで四苦八苦する毎日を送っていることでしょう。
 でも上野さんが、「・・今ケアの現場こそ新しい「思想」が日々の実践の中から生みだされている・・・」と評価してくれました。彼らの実践から「思想」が生まれている。こんな力強いエールをおくってくれた学者がいままでいただろうか。そんな思いでした。
 宅老所ケアは施設介護に対する「掟破り」でした。今も掟を破りながら進化し続けています。このエネルギーが好きです。
 ケアを介護技術の問題としてだけ考えると言う時代は終わりました。宅老所が模索してきた、いえ、今もしているはずですが、その人にとって望ましいケアとは何かという課題について、私も取材をすすめていきたいと考えています。