『む・しの音通信』51号(P6〜7)掲載記事。
2005.10.31付 毎日新聞(夕刊)より転載


シリーズ<現在への問い>第4部【創造力の行方】C
     〜ネオリベのもとで広がる「女女格差」 
     男に有利な社会は変わっていない


        上野千鶴子(うえの・ちづこ)


 9・11の総選挙で、国会の女性議員数は、敗戦直後の39人というそれ以後いちども更新されたことのない記録を抜いて、43人に達した。女性公認候補を指名し、比例区の名簿上位にならべた小泉自民党の「アファーマティプ・アクション(積極的差別是正措置)のせいである。わたしたちはこれをもって、自民党が「女にやさしい」政党に変身した、と解釈していいのだろうか?
 女「刺客」たちは、「郵政民営化」という小泉=竹中ネオリベラリズム改革路線の一兵卒として送りこまれた。議場では、数をたのむ与党の陣笠代議士として党議拘束に従い、次期の公認をあてにして党に絶対服従を誓う。女が増えたからといって、それで政治が変わるわけではない。「民でできることは民へ」という小泉構造改革は、20年遅れて登場したサッチャー=レーガン改革だと言われて要る。「鉄の女」を宰相に持ったイギリスでは、女がトップに立っても「女にやさしい政治」などもたらさないことを、経験からだけでも知っている。女性大統領候補に熱狂するのは、ナイーブなアメリカ人しらいだ。だが、かれらとて、好戦的なライス国務長官を目の前にして、鼻白む思いを味わっているのではないか。
 女ならだれでもいいのか? 今度の選挙ほど、この古くからある陳腐な問いが、新たな意味を持ったことはない。
 ネオリベことネオリベラリズムは、「自己決定・自己責任」を原則とする。小泉チルドレンの女たちは、恵まれた出自に高い学歴、能力も実績もある。「才能と努力で」地位をかくとくした「勝ち組」の女たちだ。それなら、フリーター、ニート、パート、派遣労働の「負け組」の女たちは? それおをネオリベは「自己責任」というのだろうか?
 フリーター問題もパート・派遣問題も、「本人の選択」ではなく労働市場の構造的な要因であることはすでに立証されている。労働市場の柔軟化というグローバルなすう勢のもとでの労働条件の切り下げに、男性正規雇用者の既得権防衛のみに汲々としてきた連合が、最近の会長選挙で、高木剛・新会長に対する対立候補、全国コミュニティ・ユニオン連合会会長の鴨桃代さんに集まった批判票の多さに衝撃を受けたのも当然だろう。
 ネオリベのもとで拡大する格差に、女もまた巻きこまれている。男女格差だけでなく、女女格差が拡大し、「勝ち組」のなかに参入する女性が増えるいっぽうで、「負け組」の女は「自己責任」とされる。ネオリベのもとでの、「男女共同参画」のいちばんわかりやすい指標は、「あらゆる分野における女性の代表制」、すなわち人口比に見合った女性比率の達成である。国会議員の半数を女性に、官僚の半数を女性に、管理職に女性の登用をもベンチャー企業の経営者にも女性を、右翼にも女性の参入を、そして自衛隊にも国連PKOにも女性を、それに加えてリストラ自殺者の半数を女性に・・・・?
 こんな悪夢がフェミニズムの目標だったのだろうか。他方で、育児休業取得者の半数を父親に、介護労働者の半数を男性に・・・・・はいっこうにすすまない。
 こういう「目標」は、現在の社会のしくみをそのまま現状肯定した上で、そのなかに「男女共同参画」しようという「目標」である。だが、社会のしくみそのものが、男に有利にできているところでは、多くの女はなるべくして「負け組」になり、男のようにふるまった少数の女だけが「名誉男性」として男から分け前を与えられる。フェミニズムは「こんな社会はいらない」、つまり社会のしくみを変えよと要求したはずだった。
 だが、「男女平等」を掲げることに及び腰だった「男女共同参画社会基本法」すらその廃案を自民党の一部が言いだし、「ジェンダー」の用語を禁句としようという提言が公然とまかりとおるようになった今日、ネオリベの「男女共同参画」さえ、逆風から守らなければならない立場にわたしたちは立たされている。
 「こんな社会」に対する女たちの答えは出ている。非婚化と少子化である。こんなところで産めない、育てられない、と女たちの集団意識は、歴史的な答えを出している。「ジェンダー」バッシングは、家族の危機に対する守旧勢力の反動だろう。だが、声高に「家族を守れ」と叫ぶほど、ネオリベの圧しつける「自己責任」の重さは、家族を崩壊させる結果になることに、かれらは気づかない。 
 フェミニズムはネオリベから袂(たもと)を分かつことになるだろう。そうなれば、女のなかでだれが味方で、だれが敵かはっきりしてくるだろう。処方箋(せん)はすでに練られ、考えつくされ、提案されている。いつでも誰でも何歳からでもやりなおせる社会を。働き方を選べて、そのことで差別的処遇を受けない社会を。育児や介護が強制労働や孤独な労働にならず、その選択が不利にならない社会を。女が男の暴力やセクハラにさらされない社会を。女が家族の外でも、ひとりで安心して子どもを産み育てることができる社会を。それらがひとつとして実現されないからこそ、フェミニズムの歴史的役割はまだ終わらないのだ。