『む・しの音通信』53号P11
(2006年3月3日発行)
だれが意思決定したのか?
〜市民参加型事業の問題点〜
岐阜県山県市・寺町みどり
東京都国分寺市が、国の「人権推進事業」に上野千鶴子さんの講演会を市民参加で企画したところ、東京都教育庁が、上野さんが「ジェンダー・フリー」という用語を使うのではないかと、国分寺市に圧力をかけ、中止になったという事件を、わたしは、1月10日の毎日新聞夕刊で知った(新聞記事は、前号のP8に掲載)。
読んですぐ、ひどい話だと思った。上野さんが「当事者主権」講演会で、「ジェンダー・フリーを使うかも」というのは、根拠のない言いがかりである(ブログに検証記事を書いた)
この事業は文科省の「人権教育推進のための調査研究事業」で、「国→都道府県→市町村」に再委託する形のもの。根拠法は「人権教育・啓発推進法」。この法律を元に基本計画、実施要綱が定められている。法や要綱の趣旨にてらしあわせても、上野さんが講師として不適任と判断される理由はまったくない。
この事件に関しては、当事者の上野さんが、「いかなる手続きによって意思決定に至ったか、その責任者は誰か」「上野が講師として不適切であるとの判断を、いかなる根拠にもとづいて下したか」と、「公開質問状」(1.13付)と「督促状」(2.7付)を送付し、その中で問題点をあげて、詳細に反論し批判している。
上野さんの質問状に対して届いた、都と市の言い分には食いちがいがある。都教委は「都は問い合わせをしただけ」で「市が考慮して実施しないことにした」とし、いっぽうの市教委は「意思決定権者は教育長」と認めながら「都の意向から事業実施が困難と判断」しただけで、「(上野さんが)不適切とは判断していない」と応えている。疑問なのは、「都の意向」だけで、法に照らしあわせてどうなのか、実施要綱の趣旨に反しているのか、という判断をどちらもしていないことだ。さらに、事業は市民のために実施するはずなのに、市民に対しての配慮も視点も、ぬけおちている。この回答を読んで、都教委がより悪いと思った人は多いと思うが、わたしはべつのことを考えていた。
この市民参加型事業をいちばん実現したかったのは、きっと市民だ。しかし事業は中止となり、結果として市民が不利益を受けた。事業の意思決定権者は市教育長。市教委が「都の意向」ではなく、「市民の意志」を尊重すれば、事業の目的と趣旨を精査して、市の判断に間違いはないと、都に対抗することもできたはずだ。 市民と行政が対立関係ではない時代にはいったいま、同種の問題は「市民参加」が(むしろ)すすんでいる自治体で日常的に起きている。市民と行政の「協働」がすすんだまちの友人の市民派議員と意見交換した。彼女はいう。
「市民参加の事業が、最終段階になって、市民の意見が通らないという理不尽なことが起きたとき、市民の側に情報がないとはじめて気づく。職員は『市民参画』と口ではいいなから、都合のよい情報と事実だけしか市民に知らせていなかったということ。情報は、さいしょから『チョイス』され『粉飾』されている。行政は立場を守るために、土壇場で市民を裏切る」。
責任と権限は不可分である。行政と市民が対等に仕事をし信頼関係を結ぶには、なれあいになるのではなく、市民の側も、自分たちの権利と、責任と権限がなんなのか、誰が最終的に意思決定するのかを、あらかじめ確認し、事業の仕組みと市民の位置づけを知っておくことが必要だ。そして行政が、市民に不利な選択や判断をすることを、見のがさないことだ。
もとに戻れば、もしこの問題が、手続き的には、事業が立ち上がる意思形成過程(意思決定前)のできごととして、うやむやに葬り去られるなら、市民は使い捨てにされたということになる。この「市民に不利益なルール」こそが、市民参加型事業の、手続き的瑕疵(かし)である、とわたしは思う。
市民が、今後も行政をパートナーとして「市民参加」「協働」をすすめたいなら、市教委に非を認め謝罪させることだ。市民の損害を回復するためには、いまからでも、「人権講座」と「当事者主権」講演会を実現させることである。
不利益や損害を受けたとき、市民自身が、現場で行政に対峙することでしか状況は変わない。 行政や制度も前よりはずっとよくなった。 「情報公開」や市民の使えるノウハウを駆使して事実関係を精査し、いつ、どこで、だれが市民に不利益な意思決定をしたのかを明らかにすることが、「市民自治」につながると思う。
(この事件の詳細については、「みどりの一期一会」
http://blog.goo.ne.jp/midorinet002/ を参照のこと)