『む・しの音通信』62号(2007.8.12)

   私の選挙・有権者が変わった!  
        埼玉県越生町・田島公子



 7月29日、参議選と同日で、越生町議会議員選がありました。人口13,400人、有権者10,836人、世帯数4800。昨年、議員定数を16から11に削減し、立候補者12人の厳しい選挙です。
 私は、今年2月の選挙講座に参加しましたが、当時は時間があると思いながら受講していました。準備は早くからと聞いてはいたのですが、なかなか取り掛かれませんでした。
 友人に似顔絵を描いてもらって名刺を印刷し、新旧の議会報告2種と名刺を持ってポスティングをはじめました。
 政治団体を作るために、代表を誰に頼もうか悩んでいましたが、前回選挙を手伝ってくれた人に頼んだところ、あっさりと引き受けてくれたので、5月15日に県庁に届けを出しに行きました。告示前90日を切っていたので、候補者本人が寄付するには「資金管理団体」でなければ駄目と言うことで、その場で自分が代表になりました。
 つぎに、リーフレットとはがき、看板を作り、目立つ場所に立てました。6月初めからは私の政策を知ってもらいたいと、リーフレットも加えてポスティングを続けました。不在が多く、黙ってポストに入れるのが中心で、在宅の場合時々お話する程度でした。全部ひとりで回ったので、1回2、3時間ですがかなり疲れ、1週間に2〜3度、結局参議院選の公示前に、29町内のうちの25町内の各50〜80%くらいを回りました。選挙はがきのあて名書きは知人だけに依頼しましたが、初めての人が多く、意図がなかなか伝わりませんでした。また当町のゴミ処理は一部事務組合で行っていますが、今年の収集カレンダーはとても見づらいので、見やすいものをつくり、それも一緒に配りました。このカレンダーは大変好評でした。
 選挙ポスターのデザインは前回お願いした
 
 友人のデザイナー、印刷はインターネットで探した会社で作りましたが、これもさっさと進めなかったため出来上がりは告示1週間前でした。
 前回は直前に立候補したまったくの泡沫候補で、ほとんど人に頼まず選挙をしました。
 今回も運転手は従兄弟、マイク係は妹。事務所には前回の友人が来てくれました。従姉妹たちも手伝いにきてくれました。今回は頼まれた方が気分が良いということで隣組の人にも声をかけ、交代で手伝ってもらいました。  
町の中心で、はす向かいに候補者が2人いて、事務所が近く、出入りが丸見えのためか、訪問者はあまりありませんでした。事務所にはお茶とペットボトルとせんべい程度のお菓子。
 街頭演説は町内をほぼ毎日1周し一日25〜30回程度。支援者の家の前でも結構演説しましたが、誰も見えない家に向かってすることがほとんどでした。選挙カーは、政策と名前を交互に連呼しました。相手候補の事務所や選挙カーとすれ違うときには、黙ってニコニコと手を振ることにし、事務所の近く10〜20メートルは音を消して通り過ぎました。
 開票結果は2回目でトップ当選。自分でもびっくりしました。いろいろな勝因があると思いますが、一番は4年間、新聞折込による私の33号の議会報告が有権者に評価されたこと。2つ目は短い演説で共感を得たことと事務所からの電話かけ。3つ目は入浴施設への岩盤浴設置反対を明確に主張したこと(町民は反対多数、議会は可決)。今回は期を重ねた候補は共産党を除き、古い順に下位になりました。良識派と思われる新人が2位3位を占め、4期目の現職が落選しました。これは明らかな変化で以前の選挙ではなかったことです。
 何人もの人から「越生の町民も見捨てたものではなかった。良かった」と聞きました。町を真剣に考えて変えてほしいという有権者の信託を重く感じます。ですから、これからがもっと大変です。身が引き締まる思いです。


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とてもうれしい、川田龍平さんの当選
   東京都江東区・前田かおる



●川田さん当選の意義
 今回の参議院選挙で、東京選挙区では元HIV訴訟原告の川田龍平さんが無所属で立候補し、目標の60万票を大きく上回る683、629票を得て、5議席のうち第5位で初当選しました。応援した者の一人として本当にうれしく思っています。
 じつは私も選挙後に初めて知ったことですが、政党の支援を受けない無所属候補が東京選挙区で当選したのは1965年の市川房枝さん以来ということで、大変おどろいています。川田さん当選の意義がどれほど大きいものだったかを、選挙を終えて改めて感じています。
 参考までに結果を書き添えると、東京選挙区の第1位は大河原雅子(民主)、2位は山口那津男(公明)、3位鈴木寛(民主)、4位丸川珠代(自民)で、現職の保坂三蔵(自民)は6位で落選、投票率は57.87%という結果でした。
●全国の仲間が駆けつけた選挙
 私は、川田さんの講演会を昨年江東区でひらいたこともあり、区内に何度か川田さんに直接来てもらう機会をもっていました。けれども、決して楽観できる選挙ではありませんでした。
 今年の5月頃、私が周囲に川田さんのことを話した時点で、すでに「参院選での支持は他に決めている」という人が、ずいぶんいました。同じ頃、首都圏の市民派議員の集まりで「川田さんの選挙は自分の選挙と思って取り組まないとね」と言う方があり、政党ではなく無所属で国政選挙をたたかうことの大変さ、並みの応援では勝てない、ということを強く感じました。
 無所属で、資金や人手が限られた中で川田さんが当選できたのは、無党派層を中心に支持を広げたことと共に、全国から無所属市民派の議員や仲間たちが駆けつけて選挙を支え

たことが大きいと思います。
 各地から駆けつけた仲間たちが1週間、2週間と滞在して選挙を支えたことが、本当に大きな力となりました。
●いてもたってもいられずに・・・
 選挙期間に入り、私は、中盤一週間ほど毎日選挙カーに乗りました。川田さんは街頭で、なぜ自分が国会をめざすのか、お金や効率よりも命を最優先にする政治をつくりたいのだと、静かに訴えていました。私はこれまで色々な人の選挙を応援してきましたが、通りすがりの方が涙して演説を聞く姿を見たのは、川田さんの選挙が初めてです。川田龍平さんという人には、その話を聞いた人に、いてもたってもいられない、この人を支えたい、と強く思わせるものがあるのです。
 その理由は二つあると思います。一つには、薬害エイズ裁判で川田さん自身が堂々と声をあげて企業や国の責任を追及してきた勇気です。もう一つは、「一人ひとりが動けば政治は変わる」という政治への希望を、多くの人たちと共に、身をもって示してきたことだと思います。選挙は日を追うごとに、「がんばって」という多くの声に励まされ、勢いづいていきました。
●希望を共有するということ
 開票が始まると東京は大変な接戦で、私は開票立会人として最後までヒヤヒヤしながら見守っていました。しかし、街頭での行動や電話かけを通じて、私自身が見聞きしてきた有権者の皆さんの声から、川田さんが負けるはずはないという気持ちが、私の中で確かにありました。
 当選をたしかに得ることのできた今、この選挙にかかわることができて本当に幸運だったと思っています。それは、国政への希望をつくる、つなぐ作業に私自身がかかわることができた喜びです。
 国会で無所属で活動することは選挙以上の困難が色々あると思いますが、市民の力で送り出した代表として、これからも少しでも支えていけたらと思っています

 

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「私の初体験」
    京都府木津川市・呉羽まゆみ



 初体験というのは、常に不安と一緒のもの、と今回またまた痛感することとなった。
 合併後初の選挙で議員になった今年4月。当選証書を受け取った23日の議員初顔合わせから、問題ははじまった。「議会活動を同じくする2人以上の議員による会派制」が賛成多数により決定。その後の会派代表者会議、すなわち4会派による任意の会議において条例案が調整され、5月10日の臨時議会において「政務調査費条例」が賛成多数により可決されたのである。この条例の内容が初体験の原因である。
 政務調査費は、2000年地方自治法の改正により、議員の調査研究に資するため必要な経費の一部として、議会における「会派または議員に対し」交付できるとされたものである。条例を制定した上で交付できるというものであり、交付しなくてはならないものではない。現在多くの自治体の政務調査費について、その使途やあり方が注視されている。旧自治省は、制度化にあたり次に述べる3点を通知した。(1)交付の必要性や交付対象を十分に検討すること、(2)使途の透明性を確保すること、(3)額を定めるにあたっては、第3者機関の意見をあらかじめ聞くなど住民の批判を招くことがないよう配慮すること。  
 さて、わが木津川市の条例。交付金額に差をもうけている。会派に交付される額は、所属議員数に月額金1万円を乗じた金額 (4条)、無会派の議員に対する政務調査費は、月額金7000円 (5条)。すなわち、会派所属の有無により交付金額に月額3000円の差があるのである。
 私は、旧自治省の通知を無視し、議員平等の原則に反する条例案に反対した。そして、条例可決4日目の5月14日に差額分の差し止めを求める住民監査請求を行ったが、同請求は6月20日付で棄却された。
 
 その後が、初体験のスタート。監査結果を不服とする場合の、「地方自治法242条の2」の規定により、住民訴訟を提起したのである。期限ぎりぎりまで考え、30日以内の最終日7月20日に京都地方裁判所に訴状を提出した。議会内部の事ゆえ、議会で解決すべき、3000円の差額分が欲しいから? やはり会派所属の有無による不当な扱いはおかしい、金額差のある条例なんて京都府内くらいなど、友人、知人の反応も様々。訴訟経験者の知正さんの言葉は明快。「議員の権利をどう位置づけるかの問題であり、自分が後悔しないように」。
 たまたま、私が会派に所属しなかったから差額が生じた。意図的に私を不当に扱ったわけではない。しかしこの条例が存在する限り、公選で選挙された議員の権利に差がつけられているという不合理は許せない。そんな思いで、私にとってハードルの高いことをしたのである。新市議会のスタートにふさわしい、公正・透明な議会改革を期待している住民の思いを感じての、私の初体験の決意である。
 法律のプロの弁護士や職員を相手に、私の手探り・試行錯誤は当分続きそうだ。


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発言者名を出したくない本当の理由は
長野県安曇野市・小林純子


 
 辞任を申し出た委員長というのは、このわたしである。議会公開の原則により、だれがどんな発言をしたのか、賛成か反対か、できる限り議会だよりに出していこうという方針で創刊号から第5号までやってきた。ところが、第6号の編集にあたって、上記の新聞報道にあるように、討論の発言者名の記載をめぐり意見が対立する事態となったのである。
 残念ながら発言者名は掲載しないと決まったが、それを不服とする議員が(定数28のうち)少なくとも8人いることがわかり、議長も「議会のありかたにかかわる重要な問題であるから、全員協議会で話し合う」と約束したので、「名」は取れなかったけれども「実」は取れたかなと思っている。
 「実」といえば、記者の取材を受けて語られた二人の議員の言葉は、もう一つの「実」=会派の実態と議員の本音を表すもので、自らの問題点(まちがった認識)を露呈したかたちである。「討論での発言者は会派から指名で出しており、一個人の意見ではない」ということは、議員としての自分の意見はないといっているのと同じであり、「一般質問はどの議員がどんな答弁を引き出したかが注目されるが、討論は発言内容が重要。発言者だけが活動しているように受け取られる」に至っては、バカなことを言いなさんな、である。活動していないと思われるのがイヤなら、黙っていないで発言すればいいのだ。肝心なところで発言しないで、「オレだって議会で働いてる」と言われても、言論の府である議会では通用しない。
 結局、わたしの辞任届けは認められなかったが、辞任を表明した、と同時に新聞報道されたことで、議員の多くはこれが重要な問題であったことに気づき、認識を改めざるをえなかったようだ。さらには、市民に「何を知らせるべきか」は議員が決めるという発想から脱却するきっかけになればと期待しているところだ。


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福井『情報非公開処分取消訴訟』の報告
   原告・菅井純子



 7月25日午後1時30分から、第2回弁論が行われた。原告選定当事者である寺町知正さんと被告側の弁護士と裁判長が何回かやり取りして数分で終わった。被告の準備書面が前日に提出されたが、こちらの手元に届いたのは開廷の直前であり、それに対する反論を1カ月以内に提出するということになった。裁判長の言葉はぼそぼそと聞き取りづらいし、何やら暗号のようなやり取りでよくわからなかったが、問題の電磁的記録媒体に審議会の記録以外のデータは入っていないということの確認などをしていたらしい。
 私も知人に傍聴の呼びかけをしたのだが、原告側の傍聴者は7〜8名とやはり少なくて残念だった。とはいえ、ほんの数分で終わってしまうので、みどりさんからの案内を見て今回初めて傍聴に来たFさんもかなりびっくりしていた。それでもとにかく、傍聴者を増やして関心の高さを示すことが重要だと改めて思った。Fさんのようにここで知り合えた人もいるので、この裁判の意義を多くの人に知ってもらえる方法を考えていきたい。
 私は7月28日から札幌で開催された“人間と性”教育研究協議会(性教協)全国夏期セミナーで、福井「ジェンダー図書」排除事件についての分科会を持った。参加者は20名ほどだったが、全国から関心を持っている皆さんが集まって熱心に聞いて下さった。
 道立女性プラザの件についても福井事件の波及ということで報告に入れた。北海道の参加者からは「福井での迅速な対応が、道立女性プラザの問題の時に生かされたので感謝している」という嬉しい声が聞かれた。また各地からの報告の中には、神奈川県の中学校教諭による「DV冤罪キャンペーン」やCAPへの攻撃など、暴力の被害者がターゲットになっているものもあった。行政の男女共同参画政策に関する予算が減らされているという報告もあった。実はどこにでもバックラッシュ的な動きはあり、情報を見逃さずに対応していくこと、そして様々な分野との繋がりが大切だということを確認することができた。

 
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新刊紹介『ためされた地方自治』
原発の代理戦争をせおい
       自治を闘った人々
   新倉真理代

 
 能登半島の切っ先にある石川県珠洲市は、約四半世紀ものあいだ原発建設計画にゆれつづけた。住民たちは原発の賛否をめぐって対立し、とくに市長選挙では激しく争った。1993年の市長選に至っては票数があわず大混乱、裁判のすえ無効となっている。
 だがこうした対立は、地域社会の問題にみえながら、じつは地域社会固有の問題ではない。『ためされた地方自治:原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』(桂書房)で、著者・山秋真はその対立を「原発の代理戦争」と呼ぶ。珠洲の原発問題は、地域社会にあらわれた現代日本の社会全体の問題という認識である。
 国策である原発をたてようとする珠洲市当局のもとで、「原発いらない」と住民たちが声をあげることは容易ではなかった。なにしろ、「お上」に異を唱えることがはばかられる土地柄。しかも「代理戦争」の地。なんとか勇気をふりしぼって声をあげても、目のまえの対立相手は真の相手ではない。擬似的な対立に人びとが疲弊していく一方で、真の相手はほとんど傷つかないのだ。著者は、買収などが横行する原発選挙や、水面下ですすんだ原発用地の先行取得事件などから、民主主義とはほど遠い原発立地の実態を浮き彫りにする。
 その実態にもがく人びとの苦悩を、1993年から約13年のあいだ珠洲へかよった著者は丹念に描きだす。それは代理戦争を押しつけられた珠洲住民の苦悩であり、知らぬ間に珠洲に代理戦争を押しつけてきた多数派のひとりである著者の苦悩であり、「原発いらない」と声をあげた珠洲市民を応援するため市外から駆けつけた人々を批判する「外人」攻撃に直面した、両者の苦悩でもある。原発の代理戦争を背負いもがきながら、その苦楽を引きうけ、自治を希求して闘った珠洲の経験から学ぶことは多い。