『む・しの音通信』63号(2007.9.28発行)


特集《マイノリティが抱える困難、現状と課題》


  乳がん当事者として、議員として
      運営スタッフ・今大地はるみ

  ヘンな咳がとまらない・・・不安が胸をかすめる。乳がんの手術後、ちょっとした身体の変化にも、敏感になった。肺への転移という最悪のシナリオを想い描いた。診察室に入るのが正直、こわかった。
 「よかったぁ! 肺の写真、きれいですよ。転移してませんよ。」 いすに座る暇も与えず顔を見るなり医師は笑顔で言った。身体中の力が一気に抜けた。
 乳がんと診断されてから2年、手術からちょうど1年。昨年はベッドで迎えた誕生日を、今年はわが家ですごしている。ホルモン剤の服用による副作用が、体調を不安定にし、気分を落ち込ませる。抗がん剤に比べれば、天と地ほどの差があるとはいえ、かなりつらい。薬の副作用だとわかっていても、身体が悲鳴をあげだすと医師のもとへかけつける。身体よりも精神が不安に耐えられないのだ。医師に大丈夫ですよ、再発ではありませんよと、太鼓判を押してもらいたいわたしがいる。
 再発率50%の烙印が、これほどまでにわたしを弱気にさせるのか、とおどろくばかりだ。「強い人、しっかりした人」と見られてきたわたしは、「しっかりしていなければならない」という強迫観念にとりつかれていた。自分の能力以上の仕事をこなそうと躍起になっていた。
 そんなわたしが乳がんになってはじめて、周りの人に「助けて」と素直に言えるようになった。甘えていいんだとわかった。
 だれ一人、責めることなくわたしを支え助けてくれた。2年前の出来事なのに、いまも思い出すたび、涙があふれる。
 わたしは弱者である。
 わたしは乳がんの当事者である。
 自分自身がこの2つを受け入れることに、抵抗してきたからこそ、乳がんの発見を遅らせ、病状を悪化させたともいえる。「助けて」という言葉すら発することができなかったわたしを、作りあげてきた家庭環境も大きく影響している。
 今は、医師に甘え、周りの友人たちに助けてもらい、家族にわがままを言って、それでも募る不安が、わたしをまた、苦しめている。そんな、「弱者である」といってはばからないわたしのもとへ寄せられる相談の多くが、実は医療のことなのだ。
 「乳がんなのにお金がなくて治療を受けられない」「医療ミスで訴えたい」「リストラにあい、精神的にまいっている」「ヘルパーからの苦情を言うところがない」「高齢者施設で虐待にあっている」etc。
 介護保険法改正や障害者自立支援法施行に伴い、「これでは生活できない」「外出もままならない」といった当事者からの悲痛な声も増えてきた。公的な相談窓口がないわけではないが、わたしのところに相談してくる人の多くは、公的な相談窓口で解決してもらえなかった人たち。社会福祉協議会や市役所、市立病院などに設置されている公的な相談窓口が、機能を果たしていないのが現状だ。
 ◆第三者機関ではなく、社協や病院関係者、行政職員が担当する相談窓口であること(高齢者施設の入居者やヘルパーなどは、相談すれば当然のごとく退所や失職につながる)。◆担当者に専門的な知識がないため、たらいまわしにされること。◆学識経験者や弁護士など専門分野の人材がいないこと。◆関係機関とのネットワークが構築されていないこと。
 問題点を踏まえ、当事者が相談しやすい総合的な窓口を作ること、をこれまで何度も議会で取りあげてきたが、いっこうにすすまない行政の取り組みに、民間での相談窓口を作ろうと思い始めている。
 一人で問題を抱え、悩み苦しんでいるのに、家族にも打ち明けられない当事者の姿が、わたし自身にオーバーラップする。わたしが支えられ、助けられたように、まずは相談者の声に耳を傾けること。
 当事者自身がどうしたいのか、問題解決に向けての糸口をいっしょに考えることが、わたしにできることだ


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「当事者とすすめる障害者施策」
   愛知県日進市・ごとう尚子


 私は今年の4月まで、市民派議員として8年間はたらいてきた。その間、障害者施策の充実には特に力を注いだ。当事者から学んだこと、私が大切にしてきたことを伝えたい。
 
 
■それぞれの困難を具体的に知る■
 聴覚障害者から「手話通訳を市役所の窓口に設置してほしい」という要望が出た。その実現は簡単なことではない。しかし、彼らの「市役所や銀行などの手続きのとき、手話通訳がいなければ、筆談で行う。筆談での情報量では充分に理解できず『わからなくてもうなずいていることもあった』」という困難を知ると、私の中でその施策の必要性が確固たるものになる。

 
■権利は守られているか■
 当然の権利が、障害があることでガマンさせられてきた矛盾に気づかなければならない。  
ふたつの事例を挙げる。
1)「選挙公報の音訳テープ」〜視覚障害者は印刷された選挙公報を読むことはできない。候補者の政策を聴き比べて投票したい、参政権を保障してほしいという当事者の声に気づかされた。
2)「議会傍聴に手話通訳の設置」〜きっかけは、聴覚障害者団体が請願を提出したとき。手話通訳がなければ、提出者本人が請願がどう議論されたか、その行方を知ることすらできない。請願権の侵害に気づいた。

 
■障害者ひとりひとりと向きあう■
 同じ部位の障害といっても、困難も違い、要望も違う。特に障害をもつ子どもの場合は顕著である。そこに家庭の事情も加われば、困難は十人十色。それぞれの人を支援できる施策を実現しなければならない。
 例えば、障害のある新生児の相談事業の充実、兄弟に障害児がある場合の児童クラブの入室資格の緩和、療育施設の療育内容の充実、障害児のための補助教員や加配保育士の増員、など。施策の内容を、それぞれの子の療育や教育に合った、最適な対応になるよう変更、充実させることも必要である。
 こうした課題は、ひとりひとりの障害者と向きあうことで浮きぼりになってくる。
 
 
■共に生きるまちをつくる■
 「障害者にやさしいまちは、だれにでもやさしいまちだ」というフレーズをよく聞く。しかし、私はそうは思わない。
 車椅子、ベビーカーの人は歩道に段差があると通行しにくいという。段差をなくしスロープにすると、視覚障害者は段差がないので、知らないうちに車道に出てしまい事故にあう。そこで、危険を知らせるために点字ブロックを敷くことにする。すると、車椅子の人は走行しにくいし、高齢者はつまずくことがあり、利害が対立する。
 では、どうするのか。私は互いがこのまちで共に生きるための議論をして、合意をつくることが必要だと考える。

 
■当事者が主体となり有効な事業実施を■
 そのためのひとつの解決方法として「日進市障害者団体連絡会」を立ちあげた。肢体、知的、精神、視覚、聴覚の各障害者とそれを支えるボランティア、市民団体で構成した。
 目的は3つ。@他の障害者の困難を共感する。A共に生きる視点で議論を進める。B情報を早く共有し、行政との交渉力をつける。
 「障害者団体連絡会」は、市のバリアフリー計画の主体となって活動する。市が新築、改修するときには、設計時と完成時に、多様な障害者の視点で点検する。視覚障害者には、さわって読み取る「触地図」が用意された。
 また、手話通訳者の派遣、養成事業の実施は行政だけでは通訳者の人材確保が困難であるが、当事者、通訳者団体の尽力により県に頼らず、市での実施が可能になった。
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 自治体は実施計画と予算をもっている。当事者は、それぞれの課題と解決への願いや手法、判断力および人脈をもっている。これを効果的につなぐことが必要だ。
 「市民派議員」が共感と想像力をもって、当事者と行政の橋渡しをすれば、もっとたくさんの福祉施策が実現できるはずだ。
 (本稿では「障害者」という表記を使いました)


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婚外子を生きる 
   岐阜県・片桐妙子

 

 婚外子であることを隠し続けて生きてきた。規範から外れた母を「ふしだらな母」、原家族を「恥ずかしい家族」だと思っていた。
 家族規範による呪縛は、私が規範を内面化した時から始まり、規範をはずすことでしか終わらないことに気づいていても、そこにとどまり、隠し続けている自分が嫌だった。私は意を決して、ある女性グル−プの中で初めて婚外子であることをカミングアウトした。婚外子であることを知ってから40年近い年月が必要だった。信頼できる仲間の支えの中で少しずつ自分を取り戻していった。そして、母を許し、自分自身も許すことができた。
 私にとっての婚外子差別は、「自己の存在否定」だった。両親が内縁関係にあることで「非嫡出子」とされ、遺産相続や戸籍表記で「嫡出子」と区別された。国から区別されるほど普通ではない、恥ずかしい人間だと思った。私そのものが否定されたように感じたのは、区別が差別であることも知らない頃だった。
 妻妾を持つことが男の甲斐性といわれた時代に、母は子どものできなかった父のところに迎えられた。兄は本家で祖父と正妻によって跡取りとして育てられた。本家と、裏口から畑を隔てた、両親と私が住む二つの家は、私にとってはつながった一つのあたり前の家族だった。父はそんな家族を残してさっさと逝ってしまった。私が10歳の時だった。
 父がいなくなり、家族は転がるように、地域社会の中で、世間の縁に追いやられた。母子家庭となった頃、仲良しのCちゃんは、母親から「あの子と遊んではいけない」と言われた、と悲しそうに私に告げた。私は周りの家とは違うことに気づきながらも、そのことは口にしていけないと思っていた。家族の中で誰も話題にしなかった。
 少しずつ家族の事情がわかり、自分が婚外子であることを知った時から、ひたすら出自を隠し続けた。知られることが怖かった。家族規範を内面化し、婚外子であることを隠し続けることは辛かった。出自が知られそうな話題にはいつも敏感だった。平静を装いながら、慣れたやり方で話題を変えた。ありのままの自分を生きられないことと、私の生きづらさがつながっていることにも気づかないで、得体の知れない苦しさにもがきながら生きていた。
 婚外子という当事者の苦悩は現にある。にもかかわらず、婚外子差別がないことにされているのは、差別的な法律の改正を行おうとしないからだ。遺産相続は嫡出子の二分の一、戸籍の続柄欄に非嫡出子は女・男と記載される。プライバシ−は侵害され、進学や就職、結婚での不利益につながる。同じ母子家庭であっても離別、死別に適用される寡婦控除からも外されている。また、事実上の父が婚外子を扶養していても、認知されなければ扶養控除は認められないし、認知されても最低一年間は児童扶養手当は支給されない。これらの法制度こそが、婚外子差別を助長している。
 国連の人権規約委員会や女子差別撤廃委員会は、再三にわたって日本政府に対して法改正による婚外子差別の撤廃勧告をしている。婚外子差別は法律婚や家父長制の維持装置としての側面があり、差別を持って国のあり様を守っている。
 差別はこれだけではない。私にとっての最大の差別は、社会の偏見の中で生きることの精神的な負担だった。両親がどのような婚姻のあり方であろうと生まれてきた子どもに何の責任もない。婚外子として差別される子どもたちの絶望と苦悩を直視して、国は差別撤廃を実現してほしい。産まれ方だけで子どもが差別されていいはずがない。
 あの頃を知る人は90歳近い母ひとりとなった。封印してきた家族の事情を聞き、「生まれてきてよかった」と母に伝えた。正妻は、晩年、姉妹のように暮らした母に看取られて、今の私の年で亡くなった。「子なきは3年で去れ」といわれた時代に、跡取りを産めなかった彼女が、何を思い、どう生きたのか聞いておきたかった。家制度も婚姻制度もなく、誰もが対等に自由に生きられる社会だったら、3人はどんな関係を生きたろう。
 いま私は、婚外子として生きてきた経験が、かけがえのない宝物に思える。これからもずっと婚外子として生きていき
たい。


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・ 母子家庭から見える風景
   冬芽工房・星野智恵子


 私が母子家庭の仲間入りをしたのは8年前、息子が6歳、まだ保育園のときだった。
 さいわいフルタイムで働いてきたし、子どもを持ったのが40代だったために、経済的にはなんとかなった。何より大変だったのは、家庭の中に大人が一人しかいない、ということだった。
 私がいなければ、子どもは家で一人になる、という事実。これは大変なことだった。病気になれないから即日タバコをやめた。あんなにやめられなかったのに、非常事態というのはすごい。以来1本も吸っていないし、吸いたくなって困ったこともない。
 夜にかかる仕事と付き合いも原則としてあきらめた。長い独身時代と共働き時代を通じて、友達との付き合いはみな平日の夜だったから、それは友人をほぼ全員失うことを意味した。
 子どもが最優先。それは産んだものの責任というものだろう。「今はこうして大切な人達と別れても、いつか子どもが大きくなればまた会える」と思ったのを覚えている。 
 しかし、母子家庭になって新たに開けた世界もあった。母子家庭同士の互助ネットワークである。核家族をやっているときには見えなかった世界だった。
 保育園の玄関で「うちもおんなじだからさ」と声を掛けてくれた人。卒園式の日、「母子家庭はさあ、写真撮る人がいないんだよね」といってカメラを持ってわざわざ来てくれた人。夫が交通事故で亡くなったのは地域の花火大会の夜だったが、黙って毎年その前後に泊りがけの海水浴を計画してくれる人もいた。最初は偶然だと思っていたが、3年経って気がついた(鈍い)。
 夜どうしても用事がある時には、たがいに子どもを預けあった。どこかの家に集まってはにぎやかに(これが大事!)ご飯を食べた。
 母子家庭になると、家族の壁がいっきに薄く低くなる(同時に、核家族の壁の厚さ高さが身にしみる)。いつも他人が出入りし、迷惑をかけあえる所で生きるのは、とても健康的で快適だ。家族は本来こうあるべきなんじゃないかとさえ、ちらっと思ったりする。
 
 もちろん、経済的な面では私は例外的な存在だろう(この秋60歳になる。もうそんな余裕かましてはいられないのだが)。本当は、ここに単親家庭を取り巻く厳しい現状を書くべきだったろう。先日、市役所の子育て家庭課の方にあったら、市内の単親家庭の12%が生活保護を受けていると言っていた。今行政は、増え続ける福祉予算に音を上げて、児童扶養手当や保護費を切り下げ、「母子家庭の自立を促す」就業支援に施策の柱を移そうとしている。数年前から、市主催の遊園地招待やバス旅行はなくなった。親睦・交流事業は、家族旅行が成り立ちにくい単親家庭にとって、子どもがはしゃぎ、当事者同士が出会う、大事な機会だったのに。
 この秋、市が主催するのは「シングルマザーのための就労支援講座」だ。履歴書の書き方や面接の仕方を教えてくれるらしい。
 私たち母子家庭の面々は、実感でその欺瞞性を見抜いている。
 自立できないのは私たちのせいかよ? 就労支援というなら求人側を引っぱってきて「大就職斡旋会」でもやってくれ。
 
 一緒に助け合ってきた仲間の子どもたちもみんな中学生になった。今年は恒例の海水浴も参加する子どもが激減、存続が危ぶまれている。とうとう、親離れらしい。私には楽しい(か?)「おひとりさまの老後」が待っている。でも、「卒業」はもう少し先だ。私がしてもらったように、後から来る単親家庭のみなさんに私の出来ることでお返ししてからにしよう。互助ネットワークは、単親家庭が生き抜く命綱だ。それを育てるお手伝いをしたいと思っている。


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 「DVのなかの私」
       M.T

 

 私は現在、夫と別居し離婚調停中である。この状態が2年近く続いている。
 長引いていて落ち着かないので、すんなり終わってほしい気持ちと、今までの結婚生活の清算を第三者の目も通してきちんとしたい、私が痛い目にあってきたのだということを認めてほしいと、いう気持ちもある。要は夫を早く忘れたいが、恨みつらみもあるのでなんとか清算して対等な着地点に落ち着きたいのだ。 
 困っていることは? そしてそれをどうしたいの? と聞かれると、意外にも「それほど困っていない」のだ。現実的な問題は何とか解決できる。ありがたいことに助けてくれる人、協力してくれる人、弁護士さんもついている。しかし、厄介なのは自分の心。ぶるぶると震えながら立っている感覚。変えたいのに、変われないもどかしさ・・・。  
 「DVのなかの私」は自分に不正直で、自分のことなのに他者(夫や姑や家族)の言葉に翻弄され、したいことが後回しになる。NOが言えない、言っても通らないので不満、我慢が多かった。意見が違っても、着地点はかならず夫寄りでなければならなかった。言うことを聞かないと怒鳴られる。酒癖が悪く、酔って吐く言葉は私には耐え難いものだった。脅しや威嚇の多い夫に支配される関係に不安や恐怖を感じ、難聴、めまい、吐き気など心身の調子を崩したこともあった。私という人間もあなたと同様にわかってもらいたいし、大事にされたい。爆発して喧嘩になって、また仲良くなって・・・を繰り返しながら、なんでいつもこうなってしまうのだろう、とカウンセリングや心理学を学びに行った。
 「シェルターに逃げてもいいんですよ」と言われ、DVなのかとびっくりした。私はDV当事者だ、という確信をなかなか持てなかった。私だって人間だもの、至らないところもある。自分が犠牲者の椅子に座っていた方が楽だったから、「理不尽なことを言う夫や姑が私を振り回している」と思っていた。振り回されているのを許し、言いなりになっていた自分に気づいたのは、結婚してから10年もたつ頃。離婚を真剣に考えた。しかし、子どもに泣かれて思い留まり、結局、離婚届けは書いたものの出さなかった。
 いい時もあったのだからやり直せるのでは? とか、自分の選択した道だからこの道を行くしかない、と自分自身を納得させた。離婚して一人で立っていくのが怖かったのだ。愛されていると思っていた夫からすら見捨てられ、何の価値もない人間になるのではという不安がついてまわる。頭では、夫一人と離れたって、数人の味方と理解者、たくさんのほかの人、関わらない人、そして何人かの敵になる人がいるんだろうな、ということはわかっている。だったら、相手の思い通りになって失敗したDV関係を止め、今からの私は、いろんな人と関わりながら見捨てられても、見捨てられなくてもひとりだということを味わいながら生きて行こう。一人が基本。この当たり前のことがわからなかった。
 私の育った家庭は、思春期になる頃から両親が不仲で、私は伝書鳩のように両親の間を行き来し、口を利かない母親の代わりに父と喧嘩するという生活だった。両親は熟年離婚したのだが、その時に「お前があんまり反抗するからおかしくなったんだぞ。お前のせいで離婚になった」と怒鳴られた時、ものすごく理不尽な感じがして喧嘩した。まったく同じ言葉を夫の口から再び聞くとは思いもよらなかった。自分の中で何かが崩れ、静かに決心がついた。もう終わりにしよう。人のせいはやめよう。もうたくさんだ。傷つけあうことしかできないのなら離れよう、と。 
 DVを卒業して新しい人生を踏み出すのだと決めたのだけれど、自信のない私はしょっちゅう揺らいでいる。過去を振り返って苦虫を噛む。他者に後押しをしてもらわないと不安に駆られる。ダイエットのリバウンドみたいだ。それでも前を向いていこう。もっと楽しいことやうれしいことを味わってもいいじゃないか。束縛しない、干渉しないサッパリした生活をしたいと心から願う。自分に素直に自然に生きること、それがこれからの私の道だ。
 私はいま、次の旅のはじまりに立っている。

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外国籍女性の支援現場から
   愛知県名古屋市・杉戸ひろ子


 私が法律事務所の事務員となって、すでに20年になるが、その事務所が外国人のケースを受けるようになったのがきっかけで、個人的にも外国籍の女性たちの支援活動にかかわるようになった。また、90年代後半からはDV被害女性のためのシェルター運営にもたずさわり、外国籍女性のなかでも、とりわけDVなど問題をかかえた人たちの支援がメインの活動となった。
 外国籍のDV被害女性が、日本人や日系人の夫から例外なく受けるのが、「ビザ暴力」。ビザの更新時必要な戸籍謄本、所得証明、在職証明など必要書類を提供せず、身元保証人にならないなど、とことん協力を拒絶するという卑劣ないやがらせだ。1996年7月に法務省通達がでるまでは、夫婦間に子どもがあっても、ビザの更新はならず、本国への帰国かオーバーステイになるか、選択は二つにひとつだった。通達後は日本人の実子を監護、養育する外国籍の親には、「定住者」となって、そのまま日本に滞在できる道が拓けたが、子どもがいない場合や、子どもをとりあげられた上、家から追い出された場合には、滞在年数が十分になければ、通達前と同様、窮地に追い込まれる。
 「エンタテイナー」のビザでホステスとして働いていた外国籍女性たちがオーバーステイとなった後、滞在中に知りあった日本人男性と結婚するケースが以前は大半を占めたが、「エンタテイナー」の入国が極端に制限されている今、日本に定住する親族を訪問するため短期のビザで来日する女性たちが増えていると聞く。
 そんな中、立て続けに2人の外国籍女性から相談を受けた。日本語は拙いが、流暢な英語を話す。1人は本国で歯科医の資格をもち、もう1人はやはり自国で起業をした実業家。日本人の男性と恋におち結婚はしたものの、入管で在留特別許可の手続き中、一方的に夫から「もう一緒にやっていけない。日本から出て行け」と言われ、入管にも勝手に電話で「もう一緒に住んでいない。離婚する」と通知される。この2人は、他の多くの外国籍女性たちと違って、本国に経済的基盤をもっていることから、ビザにさほどの執着はない。しかし、夫の裏切りとそれに追い討ちをかけるように、国外に追い出すような仕打ちが許せないと憤慨する。
 別居や離婚時に子どもの親権や監護権を争ったり、実力で連れ去ったりするのは、外国籍に限ったことではなく、日本人同士の夫婦間でも頻発している問題だ。しかし、外国籍の場合、子どもを取りあげられた上に在留資格を失えば、本国に帰らざるをえず、そのまま離別となることもありうる。気にいらない外国籍の妻に対し、子どもを取りあげておいて「おまえはこの国にいる資格はない。さっさと国外に退去しろ」とまるで一国の君主のように振舞うさまは、あまりに横暴だ。
 この2年間に4つの子どもの取りあげケースにかかわった。いずれも裁判所に持ち込まれたが、すんなり決着がつかない。それが教訓となって、家を出たいと相談を受けたときは、「子どもを手放したくなければ、一緒に連れて出て!家財道具は後で持ち出せても、子どもを後で引き取るのは無理だから」と、必ず言うことにしている。
 離婚後の生活再建は日本で生まれ育った人にも容易なことではない。ましてや、外国籍のシングルマザーにとっては困難が大きくたちはだかる。アパートひとつ借りるにしても、「ペットと外国人お断り」とくる。日本語の読み書きが十分にできず、子どもの学校との連絡がうまくいかない。思春期の子どもの口から「アンタは自分の国に帰ったら?」といった言葉が飛び出す。精神安定剤を服用しながらも、必死で働き、苦しい生活の中からわずかなお金を工面して自国の家族に送金する。
 支援をする側とされる側の関係性の中で、「対等性」などありえないと思いつつ、異国でマイノリティとして生きる彼女たちのしたたかさは、支援者の私たちを逆に「支援」してくれる。活動の中でへこみそうになったとき、彼女たちから勇気づけられ元気をもらったことは数えきれない。


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「介護施設で死ぬこと」とは
   東京都八王子市・甘利てる代


 「特別養護老人ホームの入居者の死亡では、その40%が朝死んでいるところを発見されることを知っていますか。つまりお年寄りは夜中にたった一人で死んでいく。これが孤独死でなくて何でしょう」
 講演会でこんなことばを発した大学教授がいた。だから「家」で死ぬのがいいんだとも。確かに家で死にたいと思う気持ちは誰にでもある。だが、介護施設での死はそんなに寂しいことなのだろうか。
 私はいくつもの特別養護老人ホーム(特養)やグループホームなどを訪れて、現場の職員の実践を聞き取った。折りしも平成16年度の改正介護保険制度では、特養で看取りをすれば加算をしますという、「看取り介護加算」を導入したばかりであった。一方で、「特養ホームをよくする市民の会」が行った介護施設のアンケート調査では半数以上の施設が、「条件が整えば看取りを行いたい」と回答しており、何割かはすでに看取りを行っているとも答えていた。
 気がかりなことがあった。これまで、終末期のケアはお断り。危なくなったら病院に行ってください。そんな風にいっていた施設が、介護保険で加算がつくのであれば、とこぞって看取りを始めたとしたら大変だ。旅立っていく本人の意思が尊重される看取りにならないのではないだろうか。看取りの流れ作業化への不安がよぎった。
 だが、特養施設が雪崩を打つように看取りを始めることはなかった。国が看取り加算導入後の翌年に基準を改定してまで導入をすすめようとした文書によると、看取り介護加算をとった特養はわずか0.1%(2006.11)にとどまっていたのだ。人手の問題がネックになっていることと、看取りを行う指針や同意書の準備に手間取っていた。しかし、それも時間の問題であろう。今後は看取りを行う特養が増えるのは必至だ。では、いい看取りとは何か。ある特養の実践を紹介しよう。
 関西にあるN特養は、玄関を入ると食堂堂兼リビングとなったやや広めのホール。そこには仏壇が置かれている。施設としてこれはきわめて珍しいことだ。
 そもそも特養では死を語ること自体がタブーだ。亡くなった人がいればご遺体はそうっと裏口から帰ってもらう。見送りは数名の職員のみ。入る時は表玄関、去る時には裏口からだ。入居者は死に最も近い人たちだから、死の気配はできるだけ排除する。これが特養の一般的な考え方である。ところが、仏壇が食堂に鎮座しているN特養では開設当初から看取りを行っているのだ。いや、看取りだけではない。本人の希望があれば、お通夜も告別式も初七日も、ホールで執り行なっている。
 「ここに仏壇があっていいんですか」と聞いた私に、N施設長は言った。「いいんです。亡くなったことを隠してこっそりと霊安室に運ぶよりも、温かい部屋で人の気配で囲むことのほうが大切だと思うからです。お年寄りが恐れるのは、死そのものではなく、死後にどのように扱われるかが分からないことです」。だから分かるようにするんです、とこの人の回答は明快だ。施設を最期の場に選んだお年寄り(家族)は、寂しくないようにと頻繁に訪れる職員の手厚い介護を受けること(見ること)になる。そしてそれを見ているのが他のお年寄りだ。ここで安心して死ねるか、粗末に扱われないか、そんなことを感じ取ろうとしている。死後の扱いも同様だ。
 安心して死ねると分かると、不思議なことにお年寄りには生きる意欲がわいてくるようだ。「私の葬儀は派手にやってね」などとN施設長に申し出る利用者は、死が訪れるその瞬間まで「今」を楽しもうとするに違いない。つまり「特養で死ぬこと」は寂しいことではなくなるのだ。
 死は日常生活の延長線上にある。お年寄りが生きることに絶望しない日々をどうつくるか。このことに気がついた施設も少なくない。だからこそ、看取り介護加算に振り回されない死生観を持とうとしている。
 まさに現場では、お年よりが自らを生ききることを支える新しいケアの萌芽がある


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世間の「見方」
   中日新聞名古屋本社生活部記者・白井康彦


 「ウィキぺディア」によると、マイノリティーの直訳的な言葉は「社会的少数者」とか「社会的少数集団」。対義語はマジョリティー。多数派、強い立場。「なるほど。そんな感じだ」と思った。政治の世界では「市民派女性議員」はマイノリティー。私も新聞業界ではマイノリティー的。いろいろなマイノリティーに肩入れして記者活動をしているので、自分までマイノリティーに思えてくる。マジョリティーの一員であるとの潜在的意識が強くてマジョリティーの意見ばかり聞くことが好きな記者集団の中では、珍しい人種だろう。
 ここ6年、私が一番肩入れしてきたマイノリティーは多重債務者である。数は多い。全国で200万人はいる。予備軍も入れると、400万人はいる。本人だけでなく家族の生活もがたがた。多重債務で生活が壊滅的になっている人は5、600万人もいる。
 それでもマイノリティーだった。マジョリティーに少しも同情されなかった。世間のほとんどの人が「借りまくって返さない悪い奴」と、軽く見ていた。
 6年前はサラ金業界は絶頂期。サラ金の広告、CMが氾濫し、各社のもうけぶりもすさまじかった。多重債務者の救済運動を展開している木村達也、宇都宮健児の両弁護士らのグループのことを、大手サラ金会社の広報マンらは「特殊な主張をする人たち」と、マイノリティーであるかのように新聞記者らに説明していた。それに同調する記者も多かった。サラ金業界がマジョリティーになりかけていた。大手サラ金各社が日本経団連の会員になったのは、そういう雰囲気の象徴だ。
 サラ金業界は、多重債務者を大量生産して莫大な利益を上げるというビジネスモデルだった。多重債務者の大量生産は不幸の大量生産とイコール。絶対におかしい、何としても変えたい。多重債務者救済運動の法律家らは法廷で債務者に有利な判例を積み上げる活動に一番力を入れたが、自分は多重債務者に対する世間の「見方」から変えなければならないと考えた。そのために、多重債務者とサラ金会社との取引記録の分析をずっと続けた。
 どの多重債務者も毎月、まじめに返済していた。毎月の決まった日までに一定額を返さないと、いずれブラックリストに搭載される。これが嫌で、まじめに返済するしかない。カードで返済や借り入れが簡単に行えるシステムなので、多重債務者らは追加借り入れを頻繁に繰り返す。「返しては借りる」の自転車操業だ。多くの多重債務者の総借入額、総返済額の計算をして分かったのは「借りた額の合計より返した額の合計の方が多い」という事実だった。サラ金の貸出金利が高いので、返済額のうちの大半が利息に充てられて元金返済があまり進まない構図。多重債務者のほとんどは「貸出金利がゼロなら完済している人」だった。
 多重債務者やその家族の悲惨な状況、多重債務者が大量生産される構造、そして、多くの多重債務者が「悪い奴」ではないという事実をいろいろなところで説いて回った。
 2年ほど前から、市民派地方議員の皆さんに次々と、自治体当局の多重債務対策の強化を求める本会議質問をしてもらえたのはうれしかった。今は、東海地方は自治体の多重債務者対策の先進地になっている。
 昨年は、政府・国会がサラ金業界に極めて厳しい法律改正を行った。そうした流れを作ろうとする側がマジョリティーになり、サラ金業界がマイノリティーになった。マジョリティーが好きな全国紙の記者らが宇都宮弁護士らのグループに群がって、多重債務問題の特集記事を書いた。私はありがたかったが、「今ごろになって」という気分も残った。
 私の経験から言っても、マイノリティーをめぐる問題をマジョリティーに理解してもらうのは容易ではない。それでも、マイノリティーの側は理解してもらう行動を粘り強く続けるしかないのだと思う。世間の「偏見」だけはどうしても払拭せねばならない。

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